エッセイ

座右の詩「自分の感受性くらい」|人への接し方

2020年5月4日

 不要不急の外出を控えなくてはいけない状況なので、人に直接会う機会も随分減ってきました。とは言え仕事をしている以上、電話の他にメールやSNS等も駆使して、コミュニケーションを図らなくてはならないのは以前と変わりません。

 実際に顔を合わせて交流する関係ではなくてもお付き合いができるネット上の仕組みも一昔前を思えば、随分定着して来ました。大切にしなくてはいけないことは大事にしながらも、利便性のよいものはどんどん取り入れて効率を上げていきたいところです。

 今と違って僕の親世代は子供を育てるのに地域のさまざまな人の力が必要であり、地域社会のお付き合いが大切であることを、自分たちがこどもの頃に育った暮らしの記憶により知っていたんだと思います。そんな親世代に育てられた僕らの世代は、お祭りや年中行事まで日常生活の全般にわたってお互いに協力しあって暮らしていた頃とは違って、日々の暮らしの拠り所を便利な社会のサービスに求めるようになってしまいました。

 僕もこれまで自分が大きくなってきた過程をつい振り返ってお手本にしたくなるのですが、時代が変わって来ているので全てが通用するわけではないのが寂しいですね。今はネットの利便性も手伝って、何か問題が起こった場合も協力して解決しようともせずに、サービスに不満を言うクレーマーになってしまう方が多いのかもしれません。

 そんな人との関わりを希薄にした快適さに身を委ねるからこそ、子供への虐待や孤独死した高齢者が何日も発見されないといった暮らしの根本にかかわる事件が頻発しているのも否めません。僕が子供の頃は、親も近所のおじさんおばさんも大人はみんな怖い存在でした。何か悪いことをした時にはちゃんと叱ってもらったことを覚えています。今はみんながいい人になりたがっている時代なんだと思います。

 誰かを叱って恨まれたくない、人間関係をうまく保ちたい、言い返されたくない。誰にも文句を付けず、叱らず、ただ黙って見守る。そんないい人は、他人に無関心で、人に対する愛情の薄い人間であることの裏返しであるように思えます。人をなぐれば、なぐった手も痛いように誰かをしかれば、しかる側にも痛みはあります。そんな痛みを引き受けることのできる大人が少なくなったことも、現状を招いた一因かもしれません。

 僕が子どもの頃は近所の子供達と大勢で鬼ごっこや缶蹴りをしたり、秘密基地を作ったり、自分達でいろんな遊びを考え、その遊びをとおして物事の良し悪しや相手を思いやる気持ちを育んでいたように思います。今の子どもたちを取り巻く環境は、何でもすぐに手に入る為に、あまり努力をする必要がない時代ですし、スマホやタブレットの普及によって便利になった一方、人と接し直接会話をする機会が少なくなり、人と人とのコミュニケーションが以前より充分に取れなくなっている様に感じます。

 その結果、他人の事を思いやることのできない自己中心的な子どもが増え、人に対する思いやりが不足しているのが現状かと思います。きっと、悪いことをしたときにちゃんと叱ってもらえるような、自分の親以外で親代わりとなって面倒をみてくれる社会的親が不在になってしまったのかもしれません。

 相手を思いやる気持ちは人と人とのこころの交流から生まれるものだと思います。それが人と人との繋がりが希薄になっている現在において、とても必要な事だと思えるんです。簡単にはできませんが、物事に背を向けずに謙虚な姿勢で取り組むべきであり、痛みを引き受けることができる「しなやかな気持ち」を身につけなければならないと思います。

 このブログのサブタイトルが「しなやかな気持ちで」としているのですが、僕の考えるしなやかな気持ちとは、固くてポキッと折れてしまうものではなく、柔軟性があるようなやさしくて強いものをイメージしています。そんなしやなやかな気持ちで人に接したいなと思っているのですが、なかなか難しいですね。

 座右の銘ではないですが、僕が座右の詩としているものに茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という作品があります。この詩を自分のこころに置いて日々の暮らしを送っているつもりですが、ちょっと努力が足りないかな。

 とてもいい詩なので、ここで紹介させていただきます。1977年の作品で茨木さんはもう他界しておられますが、今の時代でも人間の根幹に置かなければいけない作品だと僕は思っています。

「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子「自分の感受性くらい」(花神社)

この詩の考え方が大切なことを自問自答したくて、ブログを続けているのかもしれません。

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